親密な沈黙

去年のある夏の日のこと。抱えていた仕事が一段落し、気持ちを切り替えようと思い、近所の銭湯へ行った。そこで、90°のサウナに入り頭をスッキリさせ、露天風呂に浸かった。なんともゆるりとした気分になっていた。その時にふと、森へ行ってみようという思いが頭をよぎった。そして、昔からよく知っていたのだけど、あまり立ち寄ることがなかった近くの大きな森のことを思い出した。

 

ロードバイクを走らせ、その森まで行った。自転車を置いて、森の中へ入っていった。20分ほど小道を歩いていくと、そこには、一面に緑の芝生が広がっていた。その上でバタンと仰向けに寝転んだ。風にそよぐ木々の葉っぱの、さらさら、ざわざわとした心地よい音、数種類の野鳥の鳴き声、鈴虫の鳴き声、遠くのカラスの鳴き声が芝生に寝そべる僕の両耳に驚くほど立体的に聞こえてきた。普段あまり気にしていなかったけど、寝転んで芝生に頭を置くことで、視覚は青い空を眼球の隅々まで広がるパースペクティブで感じ、聴覚はドームの真ん中にいるような何も遮るもののない純粋な響きで周りの世界を感知した。なんて、豊かなハーモニーとリズムなんだろうと、自然が世界の秘密を少しだけ打ち明けてくれた様に思えた。

 

それは都市とその近郊の世界-アスファルトの道路、コンクリートの建物、行き交う自動車、電車、広告、ありとあらゆる人工物に囲まれた世界-では味わうことのできない、さりげなく、親密で、豊かな風味。僕自身の血に流れる太古の昔から受け継がれるホモ・サピエンスの血は、この木々と虫と鳥たちこそ共にあるべきものだと感じさせた。自然は周りの世界、生き物、人と豊かに交流するための意識のスペースを与えくれる。都市の世界は人に目隠しをさせ、同時に存在している世界のスペースの広がりに気づけなくさせている。

 

サウナの後に近くの森へ行った小さなささやかな体験は、間違いなく僕たちが生きている世界には豊かな土地があるということ、そして、それは人生を味わい深く生きていくために必要な気持ちの余白・スペースを広げてくれるというシンプルな事実に気づかせてくれた。もし、もっと、木々が風に吹かれてサラサラと擦れ合う音が、鳥たちのセッションが、川のせせらぎが、夜に奏でる虫たちのオーケストラが身近で聞こえるようになったとしたら、今生きている世界をもっと好きになることができるのではないか。そう思い立って、自然の豊かな土地へ行き、録音と撮影を始めた。海、川、滝、山、自然の豊かな土地へ出かけて行って、その場にじっと佇んで、ヘッドホンで周りの音を注意深く聴き、コンデンサーマイクで音を拾いレコーダーに取り込む。映像用のカメラで風景を撮影し、じっくり音と風景を掬い上げていった。

 

録音と撮影をした自然の一部をノイズ溢れる周りの環境に置く。そうすることによって、現代の生活空間の中にあって、今生きている世界のさりげない豊かさにふと気づくきっかけになるのではないかと考えた。その考えは『山紫水明』という作品に具現化されていった。山紫水明は自然の音と映像を再生する装置とディスプレイを広葉樹の一枚板のフレームに埋め込み、限りなく自然に近づけたデジタル作品だ。デジタルであって、決してそれによって振り回されることがなく、もっとも利用すべき特質-自然の時間と空間の流れを再生する-という点を取り込み、真に意味のあるもの、役に立つものとして制作している。それは日常生活の中にあって、しずかな親密なひとときをつくる。

 

「真の行動は沈黙の瞬間に行われるものだ。われわれの人生を左右するさまざまな時期は、職業を選んだり、結婚したり、就職したりというような目に見える事実で決まるのではなくて、散歩の道すがらにふと路傍で浮かぶ黙想によって決まるのだ。」

19世紀のアメリカの詩人ラルフ・ワルド・エマーソンのこの言葉を数年ずっと心に抱えていた。まさに僕の人生も散歩の道すがらに浮かんだ何らかの想念によって決まっていたからだ。忙しい日常の中で沈黙を作ることはもっとも能動的なことなのではないかと思う。心のかすかな声に耳を傾けることは意外と難しい。それには日常の流れと違う時間と空間のギャップが必要で、『山紫水明』はそれを少しでもアシストできるものだと考えている。現在、制作の最後の段階ですが、これがきっと多くの人の生きることに寄り添って、親密な沈黙を作り出すものになると信じ、制作を続けます。