屋久島へ

人の自然を呼び起こす

屋久島の自然の音を録音するために先週の4日間、山の中をテント泊しながら過ごした。もののけ姫のモデルとなった白谷雲水峡から出発して、縄文杉、宮之浦岳、花之江河、淀川、紀元杉までの屋久島縦走ルートだ。スタート地点の白谷雲水峡は標高800m 、途中の宮之浦岳は1936m、その高低差によって屋久島は本当に多種多様な植生が見られる。白谷雲水峡では人間の手を加えられる以前の太古の森林を思わせる幻想的な景観が、宮之浦岳では異世界のような高原地帯、そしてそこにはまるで手塚治虫の火の鳥に出てきそうな岩があらわれる。道の合間には南国のジャングルにいるような植物にも出くわす。本島と熱帯の植物がこの島に一堂に介している、自然の玉手箱のような島だ。

 

神々

また、里から森の奥へと進んでいくと、あちこちに、とてつもなく大きな切り株を発見する。それは人の森への介在の痕跡をまざまざと感じさせるものだった。神のような巨木を切り倒していった人々がいたのだと。訪れる前の屋久島の印象は手つかず太古の森というイメージしかなかったが、実際には、残された原始の自然と人間の痕跡を痛々しく対比的に感じるというところがあった。

そして、時間をかけて森の最奥まで行ったところに縄文杉にドーンと出会う。奥地がゆえに1966年まで人に見つからなかったことで、切り倒されずに現在まで生き残ったのだ。中世以前には日本列島にもきっと、神々の木が身近にあったのではないだろうか。かつての人々はそれをどのように感じて、どんな心的な世界を持っていたのか。屋久島の奥には、ほんの少しだけその世界の一端をみせてくれて、かつての祖先達の共同幻想へ思いを馳せるきっかけをあたえてくれるトリガーのようなものがある。

 

動き/休む

自然の音を録音するには、僕の場合それなりの大きさの録音機材が必要でテントなどの装備も含めると約27kgの重さになる。そして、山の中での1日はとにかく歩き続けることになる。夜明けの6時ごろに出発して、日没18時ごろまで移動する。ただ、自分でも驚くことなのだが、道中はなんて重いんだ!と、しんどい気持ちになるのだけど、その日の移動を終えると、思いのほか疲労は残らずに次の日もしっかり歩き続けることができる。むしろ体調は良くなり、心は清々しい気持ちになる。

自分の身体がどこまで出来て、どこまで出来ないのか。それを確認することが今回のもう一つの小さな目的でもあった。日頃そこまで運動をしているわけではないので、実際出発する前は大丈夫かなと思えた。だが、歩き終えてみると、目的地を定めて一歩一歩前へ足を動かしていく意思と、上手にタイミングよく休憩をとる判断力さえあれば、どこまでも進んでいける、ということを実感した。

人間というのは他の生物よりも長距離を移動するように体ができているという本を読んでいて(Go Wildという本だったと思う)、まさにその通りだと体で感じた。動き続けることが人の本性なのだ。都市部での生活、部屋の中にこもっている生活(自分の場合はCG制作に没頭している時)、はどれだけ人の身体に適していないのかと歩きながら考えた。

 

海から陸へ

僕はこの数年、自然音と自然を抽象化したCGをミックスさせた映像と、再生装置を作ってきた。それは、室内の空間にあっても自然を感じられること、オンラインの海から陸にあがるためのアシストをするようなもの、そして英気を養って森へ行きたくなるようなものを作りたいという思いから生まれた。今回の滞在で、約20万年前に生まれた現生人類の身体と精神の設計に根ざしたサービスとモノを、生涯をかけて作っていきたいという思いがより深くなった。

現代の僕たちが生きる生活環境全体を再自然化していく必要があると思うし、経済空間/交戦空間としてのオンラインの海から、きちんと毎日適切なタイミングで休息のためにオフラインの陸に上がる必要もあると思う。 例えば、日中を集中して活動をした後に、森の中のなんとも絶妙な黄色からグリーンの色彩、草木のフラクタル構造の環境に包まれて爽やかにリカバリーすることができたら、その日ベッドの中ではどんな気持ちでいるだろうか。朝靄の空気、木々の香り、小川の気持ち良いホワイトノイズに囲まれていたら、心に、生活に、人の一生に、どれだけの効果を与えられるだろうか。

 

森へ

弥生時代に入る前までは、穀物の農耕のための平地での営みより、森やその付近での営みが一般的だったそうだ。どんぐりを拾ったり、鹿を捕まえたり、芋も栽培したりしていたそうだ。期間で考えると、弥生時代から現代までの間は弥生時代が紀元前9世紀ごろから始まったから、約2800年間だろうか。そうすると、現生人類発現の約20万年前まで遡ると、それ以前の森での生活は19万7200年ということになる。縄文時代だけでいうと1万年になる。その差をみると、人の心身は森の環境に最適化する設計をされてきているのだろうと思う。だから、森へ入っていくと不思議とオートマチックに元気になる。テントを畳んでいる隣の木の上で木の実を食べているヤクザルとも「よ、相棒!」というようなニュアンスの目配せをしたりする。

 

宮之浦岳の後半のルートでは、早朝の森の雨の音を録音していた。それは本当に心地よい音で、ヘッドホン越しにかなりの間じっくりと聞き入ってしまった。柔らかいシャワーのような雨粒と草木とのポップコーン的な連続する接触が森全体を包みこんでいるようだった。その広いパースペクティブを伴うフローの最中に、次の営みへの種があることに気づき、日常にもどっても、ひたすらにその種を育てて、森になるまで繋げていく。

 

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